診察時間
午前9:00-12:00
午後15:00-18:00
手術時間12:00-15:00
水曜・日曜午後休診
本レポートは、13歳のミニチュアダックスフント「モカ」が経験した肝臓転移を伴う脾臓血管肉腫(Hemangiosarcoma, HSA)との闘病の記録を、初診からの経過日数(病日)を用いて時系列で再構成したものです。この症例報告を通じて、血管肉腫の典型的な進行と臨床経過を具体的に示します。 モカちゃんの闘病記は、初期の捉えどころのない症状から始まり、診断、外科治療、そして残念ながら避けられなかった再発と終末期に至るまでの道のりを辿ります。犬の血管肉腫は、診断と治療において獣医療における大きな課題の一つであり 、モカちゃんの経験は、この病気の臨床的現実を浮き彫りにします。同様の困難に直面している飼い主様にとって、情報提供と考察の一助となることを願います。
• 主訴と現病歴: ミニチュアダックスフントのモカちゃん(避妊メス、13歳)が、食欲不振と元気消失を主訴に来院。約1ヶ月前に混合ワクチン接種後、一時的な血尿と食欲不振があったが、当時は膀胱炎疑いとして経過観察となっていた。来院数日前から明らかな食欲低下と沈うつが続き、便量も少なく、腹部が張ってきたようにも見えるとのこと。
• 身体検査所見: 体重6.3kg、直腸温39.1℃(微熱)。脱水なし、聴診上、心雑音等の著変なし。腹部触診では軟らかく、疼痛反応なし。既往歴として椎間板ヘルニア(手術歴あり)、皮膚アレルギー、直近の膀胱炎疑い(血尿)治療歴あり。
• 初期評価と計画: 高齢であり、症状が非特異的であるため、腹腔内腫瘍も鑑別診断リストに含める。血液検査および腹部超音波検査による精査を提案。
• 血液検査: 軽度の貧血(赤血球数低値)、肝酵素ALTの上昇(基準値上限~100 U/Lに対し174 U/Lと約2倍)、炎症マーカーCRPの著増(7.0mg/dL超)を認める。白血球数は軽度増加。血小板数は機械計測上低値であったが、凝集塊が確認されたため偽性血小板減少症と判断。ALP, GGT, BUN, Creは基準範囲内。
• 臨床的意義: 高齢犬におけるALT上昇とCRP陽性は、炎症を伴う肝胆道系疾患を示唆する。特に腫瘍による肝実質破壊や炎症が疑われる所見である [原資料]。軽度の貧血は慢性疾患や、この時点では明らかでない微量の出血を示唆している可能性もある。
• 腹部超音波検査:
肝臓または脾臓領域に直径約5cm以上の腫瘤性病変を確認。周囲に少量の腹水貯留も認める。肝実質内にも小さな低エコー病変を1箇所確認。
• 臨床的意義: 超音波検査は腹腔内腫瘤と腹水の検出に極めて有用である 。腫瘤の存在に加え、少量の腹水であっても、腫瘍からの出血や滲出液の可能性を示唆し、特に血管肉腫のような出血しやすい腫瘍 を疑う根拠となる。この所見は、モカちゃんが見かけ上安定していても、緊急性が高まっている可能性を示唆する。
• 診断と治療方針: 画像所見から腹腔内腫瘍の存在は確実。原発巣の特定は困難だが、外科的摘出が必要と判断。モカちゃんの状態は比較的安定していたものの、腫瘍破裂による急変リスク を考慮し、早期の試験的開腹手術を計画。飼い主へ手術の必要性とリスクを説明し、同意を得る。
• 術中所見: 全身麻酔下で開腹。腹腔内にゴルフボール大(直径5-6cm)の腫瘤を確認。腫瘤は脾臓由来と判断。約100-200mLの血様腹水を認める。腹膜播種(肉眼的な広範な転移)は認められず。肝臓内側右葉に小さな色調変化のある結節を1箇所認め、生検を実施。
• 臨床的意義: 腫瘍からの出血を裏付けるものであり、血管肉腫に典型的な所見である 。腫瘤の外観(血腫様)も脾臓血管肉腫を示唆する 。肉眼的な播種がないことは比較的良好な所見だが、微小転移の可能性は否定できない 。
• 実施手技: 脾臓全摘出術および肝生検を実施。麻酔・手術経過は安定。摘出脾臓・腫瘍および肝生検組織を病理組織検査のためホルマリン固定。
• 術後管理: 麻酔からの覚醒はスムーズ。入院管理とし、オピオイド系鎮痛薬と点滴で疼痛管理と循環維持を行う。術創は合併症なく経過。翌日には自力での少量の摂食が可能となり、徐々に食欲回復。
• 全身状態安定のため、抜糸前に退院。抗生剤(アモキシシリン系)を5日間処方。自宅での創部ケアと安静について指示。抜糸は術後2週間の予定。
• 病理組織検査結果: 脾臓腫瘤は「血管肉腫(Hemangiosarcoma)」、肝生検組織は「血管肉腫の転移巣」と診断。
• 臨床的意義: 病理組織検査による確定診断は不可欠である 。肝臓への転移が確認されたことで、病期はステージIII(遠隔転移あり)と診断され 、予後は極めて厳しいものとなる 。
• 飼い主への説明と方針決定: 血管肉腫は極めて悪性度が高く、再発・転移(特に肺、心臓)のリスクが高いこと 、根治は困難であることを説明。術後補助化学療法(ドキソルビシン等を用いたプロトコル )の選択肢を提示。化学療法は生存期間中央値をある程度延長させる可能性はあるが 、副作用、通院負担、QOLへの影響も考慮する必要がある 。飼い主はモカちゃんの年齢、体力、QOLを最優先し、化学療法は実施しないことを選択。今後は2週間ごとの定期検診で再発兆候の早期発見と緩和ケアに努める方針となる。
• 抜糸実施。術創治癒は良好。触診上、異常なし。モカちゃんは食欲・元気ともに良好で、飼い主からは「手術前より活力が戻った」との報告。体重は術後一時的に減少していたが(5.9kg)、回復傾向。治療は行わず経過観察を継続。
• 状態安定。体重6.26kg、体温38.8℃。食欲旺盛、嘔吐・下痢なし。飼い主からは「散歩に行きたがるほど元気」との報告。ただし、血管肉腫は外見上元気でも急変する可能性があるため 、呼吸困難などの異常があれば即時受診するよう再度指示 。投薬なしで終了。
• 緊急連絡と来院:
早朝、「ぐったりして立てず、呼吸が荒い」との連絡。来院時、著しい粘膜蒼白(歯茎が白色)、頻脈、腹部膨満(波動触知)を認める。超音波検査にて腹腔内に大量の腹水(血液貯留を示唆)を確認。
• 臨床的意義: 腹腔内出血による失血性ショック状態であり、血管肉腫の典型的な終末期イベントである 。肝臓の転移巣または脾臓摘出部位近傍の再発巣からの破裂が強く疑われる。
• 緊急検査:
血液検査で重度の貧血(HCT 12.3%, Hb 4.2 g/dL)、著明な白血球増加(WBC 52,400/μL、炎症およびストレス反応)、肝酵素の急上昇(ALT 358 U/L)、軽度の黄疸(総ビリルビン 1.7 mg/dL)を確認。
• 臨床的意義: 検査結果は、生命を脅かす腹腔内大出血とショック状態を裏付ける 。ALTの急上昇は、出血による肝虚血や転移巣の壊死を示唆。黄疸は肝機能不全または溶血の可能性を示唆する。
• 胸部レントゲン: 明らかな肺転移像や胸水、心陰影拡大は認められず(心臓転移の有無は不明)。主要な問題は腹腔内出血と判断。
• 治療方針の決定: 極めて厳しい状態であることを説明。輸血や緊急開腹による止血も理論上は選択肢となるが、モカちゃんの全身状態、既に全身転移している可能性 、そして「これ以上辛い処置は避けたい」という家族の意向を尊重し、積極的な延命措置は行わない方針となる。点滴や酸素投与などの緩和ケアを実施し、自宅での看取りを希望されたため、そのまま帰宅。
• 自宅にて、家族に見守られながら穏やかに息を引き取ったとの連絡を受ける。前日夜までは比較的苦しむ様子は少なかったとのこと。
• 考察: 手術から約6週間という短い期間であったが、外科的介入により腫瘍量を減らし、一時的にQOL(生活の質)が改善された期間が得られたことは、モカちゃんと家族にとって貴重な時間となった。進行した血管肉腫における治療目標が、必ずしも治癒や長期延命ではなく、質の高い時間を最大限確保することにある場合が多いことを示している 。