犬の「心房粗動(しんぼうそどう)」を徹底解説
— 具体症例つき・飼い主さんにやさしい完全版 —
この記事は、専門的な内容も省略せずに、できるだけやさしい言葉でまとめています。
「何の病気?」「どんな検査?」「治療は?」「おうちでの注意点は?」まで、実際の症例を交えて丁寧に説明します。
はじめに:心房粗動ってどんな不整脈?
- 心臓の上の部屋(心房)の中に、電気がぐるぐる回る通り道(リエントリー回路)ができ、心房が毎分300〜600回のとても速いリズムで動き続ける状態です。
- 心電図では、ノコギリの刃のような細かい波(F波)が連続して見えます。
- 心房の速さがそのまま全部下の部屋(心室)に伝わるわけではなく、2回に1回(2:1)や3回に1回(3:1)など、一部だけ伝わることがあります。これを伝導比といいます。そのため脈が速くなる・不規則になることがあります。
- 主な症状は疲れやすい、息切れ、咳、失神(ふっと意識が落ちる)など。無症状のこともあります。

症例で見る:実際にこんなワンちゃんが来院しました
症例のプロフィール(記事1枚目の内容)
- 犬種・年齢:アメリカン・コッカー・スパニエル(雑種表記あり)、17歳
- 既往・来院理由:以前の診察で洞不全症候群(SSS)が疑われ、プロパンテリン(抗コリン薬。徐脈対策で使われることがある)を内服中。さらに詳しく調べるため循環器科を受診。
- 身体検査:体重 8.6 kg。不整な頻脈のため心拍数の正確な測定は難しいが、聴診では不整以外に大きな異常はなし。
- 画像検査:胸部X線で心拡大なし。心エコーでは軽度の慢性変性性房室弁疾患(僧帽弁逆流が主体)を認めるが、左房・左室の拡大はなし(=重い器質的心疾患は考えにくい)。

心電図の結果
- 記録条件:紙送り 50 mm/秒、1 mV=0.5 cm。
- 所見:
- ・P波は見えず、基線にノコギリ状のF波が連続。
- ・F波レート:約480回/分(図2で計測)。
- ・R–R間隔は一定でなく、房室伝導比が変化。
- ・記録前半は2:1伝導 → 心室拍数は約240/分(図3の青矢印部分)。
- ・記録後半に7:1伝導(赤矢印)や3:1伝導(黄矢印)も出現。
- 結論:心房粗動(AFL)。
- キーポイント:鋸歯状F波と、房室結節の不応期に依存する伝導比。1:1伝導はまれですが極端な頻脈になり危険です。
どうして起こるの?(病態のしくみ)
- 原因は、右心房の中にできる大きなリエントリー回路(macro-reentry)です。
- 多くのケースで、回路は下大静脈—三尖弁輪の間(cavotricuspid isthmus)と呼ばれる部分を周回します。
- 背景になりうるもの:
- ・心房拡大を引き起こす病気(弁膜症、心筋症など)
- ・WPW症候群、心筋梗塞、心臓腫瘍、薬剤 など
- 獣医領域の報告:
- ・動脈管開存で左房拡大に伴ってAFLが出た例
- ・心タンポナーデの心膜穿刺後に出現した例
- ・右心房腫瘍に併発した例 など
- 大型犬は解剖学的に心房が大きく、AFLやAFが起こりやすい可能性があります。
- 本症例のポイント:中型犬で心房拡大がないため、明確な器質病変が背景とは言いにくい。
- 人では器質疾患が見当たらないAFL(Lone AFL)があり、犬でも検査で異常が乏しいのにAFLを呈する報告があります(剖検で心房筋の変性・脱落を認めた例)。
- 自律神経(交感・副交感)のゆらぎが引き金になることも。犬猫でも麻酔中の低体温や自律神経の変動に関連してAFが出た報告があります。
- 本症例も後の経過で神経調節性失神と考えられる発作を示し、自律神経の関与が示唆されましたが、最終原因は特定できませんでした。
どう治療するの?(考え方と実際)
基本方針は、心房細動(AF)に準じると考えます。
1) アップストリーム治療(背景病態の是正)
目的:心房への負担を減らす、電気・構造のリモデリングや交感神経・RAASの過活動を抑える → 心室レート(脈の速さ)を下げやすくする。
- 弁膜症の内科管理の最適化
- 体液量・血圧・甲状腺・電解質の是正
- 必要に応じて ACE阻害薬/ARB、利尿薬・降圧薬の調整 など
2) ダウンストリーム治療(不整脈そのものへの介入)
まずは緊急度の評価が最優先です。
- 1:1伝導、強い息切れ・肺水腫・失神の反復など、循環が不安定なら入院で緊急介入します。
レートコントロール(心室拍数を抑える)
- よく使う薬:β遮断薬(アテノロール、カルベジロール など)、カルシウム拮抗薬(ジルチアゼム など)、ジゴキシン(房室結節に作用)
- 注意点:重度の心不全や低血圧ではβ遮断薬は慎重に。ジゴキシンは腎機能や血中濃度に注意。
- 症例や施設によっては、プロカインアミド/キニジン/ソタロールが選ばれることもあります。
リズムコントロール(洞調律にもどす)
- 電気的除細動(カルディオバージョン):麻酔下で電気ショックを与えて回路をリセットします。
- カテーテルアブレーション:回路の要所を焼灼して止める方法(獣医では対応施設と症例選択が必要)。
この症例の実際の経過(記事3枚目)
- 初診時:AFLはあるが症状は軽く、うっ血や心筋障害の所見もなし → 無治療で経過観察。
- その後:頻脈傾向が増強し、興奮時・排尿時に失神様発作が出現。
- 発作時モニター:頻脈の直後に心室停止が確認され、神経調節性失神が疑われた(ホルター未施行のため確定はせず)。
- 対応:β遮断薬(カルベジロール)で頻脈を軽減すると、失神様発作の頻度が減少。
飼い主さんが知っておきたいポイント
- 鋸歯状F波+一定の比率で現れるQRSを見たら、まずAFLを疑うのが基本です。
- F波の速さ ÷ 伝導比 ≒ 心室の速さ(例:この症例では 480/分 ÷ 2 ≒ 240/分)。
- 伝導比は変動するため、規則と不規則が混ざることがあります(7:1や3:1など)。
- 1:1伝導はまれでも危険(極端な頻脈 → 心不全・心筋障害のリスク)。
- 背景病態が軽い/はっきりしないAFLもあります。興奮・低体温・排尿など自律神経のイベントが引き金になることも。
おうちでできるケア
- 興奮を避ける:来客や遊びは短く穏やかに。排尿前後の声かけも落ち着いて。
- 散歩:ゆっくり短めに。息が荒い・舌が紫っぽい・座り込むときはすぐ切り上げる。
- 投薬は時間厳守:自己判断で中止・増減はしない。飲み忘れ時は主治医へ連絡。
- 水分・体重管理:脱水も肥満も心臓の負担になります。
- 発作の動画:撮影できると診断・治療調整にとても役立ちます(いつ・何をしていて・どれくらいで回復したかもメモ)。
こんな時はすぐ受診
- ぐったりしている、呼吸が苦しい、歯ぐきが白い/紫っぽい
- 失神が続く・長い、安静でも脈が異常に速い
- 咳が増えた、散歩を嫌がる、食欲が落ちた(その場合は数日以内に受診)
よくある質問(Q&A)
Q. 薬は一生必要ですか?
A. 個体差があります。症状・心拍・臓器の状態を見ながら減量や中止を検討することもあります。自己判断の変更は危険です。
Q. 治ることはありますか?
A. 電気的除細動やカテーテルアブレーションで回路を止められる場合があります。年齢・併発症・設備を考えて適応を判断します。内科治療だけで安定するケースも多いです。
Q. 運動はできますか?
A. 軽めならOKです。調子が良い日でも“少し物足りない”くらいで終了するのがコツ。
Q. 失神は危険ですか?
A. 多くは数秒で回復しますが、頻度が多い/長い/呼吸が苦しいときは危険サイン。早めに受診してください。
用語ミニ辞典
- F波:AFLに特有のノコギリの小刻みな波。
- 伝導比(2:1など):心房の速さのうち何回に1回が心室へ伝わるか。
- カルディオバージョン:麻酔下で電気ショックを与え、心臓のリズムをリセットする治療。
- アブレーション:原因の通り道を焼いて止めるカテーテル治療。
まとめ(症例で振り返り)
- 17歳の中型犬。P波消失+鋸歯状F波、F波約480/分、2:1主体で3:1・7:1も混在 → 心房粗動と診断。
- 画像・エコーで心房拡大なし。Lone AFLや自律神経の関与が示唆。
- 初期は経過観察、のちに失神様発作が出現し、β遮断薬(カルベジロール)で頻脈を抑えて改善。
- 背景の調整+レート/リズム治療の両輪で管理し、1:1伝導など緊急性の見極めがとても大切。
追補アップデート(2020–2025の新しい知見)
- レート目標の根拠が明確に
・24時間ホルターの平均心拍<125/分を目指すと予後が良好という多施設研究(AFの管理に準じ、AFLでも目標設定に活用)。
・ジゴキシン+ジルチアゼム併用は単剤よりレートコントロールに優れるという臨床データが相次ぎ、実臨床で第一選択の組み合わせとして支持が増えています。
- ホルターの運用
・日ごとの心拍変動は小さく、単回の24時間ホルターで評価可能とする報告。体調変化時に再検で十分。
- アブレーション(根治治療)の位置づけ
・典型AFL(CTI依存)はカテーテル焼灼(CTIアブレーション)で根治が期待でき、紹介施設で選択肢化。
・非典型AFL(例:前大静脈末端部の峡部を回路とする型)でも成功例のシリーズが報告。電気生理検査/3Dマッピングで回路同定が重要。
- 自律神経との関係
・迷走神経優位で誘発されたAFLの報告があり、睡眠・排尿・興奮などの自律神経イベントが引き金になり得ることを再確認。カルベジロール等でのコントロール戦略は理にかなう。
- 抗血栓療法の現在地
・AF以外の不整脈のみを理由に犬へ routine で抗血栓薬は推奨しない(別の高リスク因子がある場合のみ検討)。AFLでも原則不要。
・DOAC(リバーロキサバン/アピキサバン)の使用は増え、薬力学データも前進。ただしまれに肝障害の報告があり、症例選択とモニタリングが必要。
- そのほかの関連情報
・術後新発AFでジゴキシンが洞復帰に寄与した症例報告(弁膜症手術後)—AFL管理そのものではないが、AF/AFL周辺の知見として。
・イバブラジン:犬で心拍低下効果は示されるものの、AF/AFLのレートコントロールの第一選択ではない(基本はβ遮断薬/ジルチアゼム/ジゴキシン)。
実装アップデート(臨床運用の具体)
- 目標心拍:治療のゴールは「24時間平均心拍<125/分」。必要に応じて薬を組み合わせ、ホルターで確認します。
- 薬の組み合わせ:ジゴキシン+ジルチアゼムを併用することが多く、単剤より脈を落ち着かせやすいことが分かっています。状態によってβ遮断薬(例:カルベジロール)も使用。
- 検査頻度:単回の24時間ホルターで効果判定が可能なことが多く、体調変化時に再検。
- 根治治療の選択肢:カテーテルアブレーションで回路を焼いて止める方法が紹介施設で可能な場合があります。年齢・基礎疾患・費用を一緒に検討。
- 血栓の薬:AFLだけを理由に抗血栓薬は原則不要。別のリスクがあるときに検討します。
※それぞれのワンちゃんで最適な治療は違います。気になる症状やお薬のことは、発作の動画・内服リスト・最近の様子のメモを持参のうえ、遠慮なくご相談ください。
飼い主さんと一緒に、無理なく長く安定した毎日を目指します。