猫の乳腺腫瘍:飼い主様のための包括的ガイド
猫の乳腺腫瘍は、飼い主様にとって大きな不安をもたらす疾患の一つです。
このガイドでは、猫の乳腺腫瘍に関する最新の情報や文献を基に、
その性質、原因、症状、診断、治療法、そして予後について、
専門的な内容を省略することなく、分かりやすく解説します。
愛猫がこの病気と診断された場合、あるいはそのリスクについて
理解を深めたい場合に、この情報が役立つことを願っています。
I. 猫の乳腺腫瘍を理解する:飼い主様への導入
A. 猫の乳腺腫瘍とは?
猫の乳腺は、メス猫の場合、脇の下(腋窩)から股間(鼠径部)にかけて
左右に4対、合計8つ存在します。乳腺腫瘍とは、これらの乳腺組織に発生する
異常な細胞増殖のことを指します。腫瘍には、良性(がんではない)のものと
悪性(がん)のものがあります。猫の乳腺腫瘍において特に問題となるのは、
悪性腫瘍である「乳がん」(Feline Mammary Carcinoma, FMC)です。
B. なぜ深刻な懸念となるのか?猫の乳腺腫瘍の「性格」
- 高い悪性度: 猫の乳腺腫瘍の約85~90%が悪性と報告されています。これは犬と比較して著しく高い割合で、猫は犬の2倍発生しやすく、悪性型に至っては5倍も発生しやすいとされます。
- 攻撃的な性質: 局所組織への浸潤や肺などへの遠隔転移を起こしやすい傾向があります。
- 発生頻度: 皮膚腫瘍、リンパ腫に次いで3番目に多く、がん関連死の主要な原因の一つです。英国の2016年調査では、雌猫10万頭あたり104頭の発生率が報告されています。
これらの腫瘍は初期に症状を示さず、グルーミング中や撫でている際の
偶然の発見が多いですが、症状が出た時には既に肺転移など進行している
ケースが少なくありません。この「静かで致命的な」性質が早期発見・早期
治療の重要性を物語っています。
II. 原因とリスク要因:なぜうちの子が乳腺腫瘍に?
A. ホルモンの圧倒的な影響
エストロゲンやプロジェステロンといった女性ホルモンが深く関与し、
未避妊の猫は避妊済み猫に比べリスクが7倍高いと報告されています。
B. 早期避妊手術の予防効果
- 生後6ヶ月齢以前: リスクを91%減少
- 生後7~12ヶ月齢: リスクを86%減少
- 生後13~24ヶ月齢: リスクを11%減少
- 生後24ヶ月齢以降: 予防効果は認められない
卵巣を摘出することでホルモン刺激を断ち、乳腺腫瘍リスクを大幅に低減。
望まない妊娠防止のみならずがん予防の観点からも早期避妊を推奨します。
C. 年齢
診断時の平均年齢は10~12歳。中高齢でリスク増加。
D. 品種による素因
純血種は雑種よりリスクが高い可能性。特にシャム猫は若齢発症傾向。
日本の古い研究では日本猫とシャム猫が多くを占めていました。
E. プロジェスティン製剤使用歴
過去に発情抑制や行動治療で多用した場合、リスク増加が知られています。
F. その他の要因
肥満や食事も関連の可能性あり(犬ほど明確ではない)。
リスク要因 |
関連リスクレベル |
主な情報源 |
未避妊/避妊時期遅延 |
高 |
複数研究 |
6ヶ月齢以前の避妊 |
大幅減 (91%減) |
複数研究 |
7~12ヶ月齢での避妊 |
大幅減 (86%減) |
複数研究 |
加齢(中高齢) |
高 |
大規模調査 |
品種(シャム猫等) |
中 |
複数研究 |
プロゲスチン使用 |
中~高 |
複数研究 |
III. 兆候を見逃さない:早期発見の重要性
- しこり:硬い腫瘤。大小・個数は様々。
- 皮膚変化:急速増大、潰瘍、出血、浸出液。
- 全身症状:元気消失、食欲不振、咳/呼吸困難、リンパ節腫大。
自宅で月1回、リラックス時に優しく撫でて確認。小さくても
発見したら即受診が肝要です。
IV. 診断:獣医師はどのように乳腺腫瘍を特定するのか
A. 病歴聴取と身体検査
避妊歴・年齢・全身状態を聴取後、乳腺とリンパ節を丁寧に触診。
B. 細胞診(FNA)
細い針で細胞を採取し顕微鏡観察。悪性の可能性を示唆するが、
良悪性判定やグレード判定は困難。
C. 病理組織検査(生検)
切除/切開生検で組織を採取し、良悪性確定、種類特定、組織学的
グレード判定を行うゴールドスタンダード検査。
D. ステージング検査
- 所属リンパ節:細胞診 or 病理検査
- 胸部X線:肺転移の有無確認
- 腹部超音波:腹腔内転移の有無確認
- CT/MRI:詳細評価・手術計画
E. 血液検査・尿検査
全身状態・腎肝機能・併発疾患の有無評価。麻酔や化学療法に備える。
V. 腫瘍のステージ分類:重症度と広がりを理解する(TNM分類)
A. ステージ分類とは?
がんの進行度指標で、治療計画・予後予測・獣医師間共通基準として必須。
B. TNMシステム
- T1:直径<2cm
- T2:直径2~3cm
- T3:直径>3cm
- N0:リンパ節転移なし
- N1:リンパ節転移あり
- M0:遠隔転移なし
- M1:遠隔転移あり
C. 臨床ステージ(I–IV)
- ステージI:T1 N0 M0
- ステージII:T2 N0 M0
- ステージIII:T3 N0 M0 または Any T N1 M0
- ステージIV:Any T Any N M1
D. 新分類の提案
- T4カテゴリー:胸壁・腹壁浸潤、皮膚潰瘍を含む
- IIIA:T3 N0 M0
- IIIB:T4 N0 M0
- IIIC:Any T N1 M0
VI. 猫の乳腺腫瘍の治療法:詳細な概要
A. 外科治療:治療の柱
- 部分乳腺切除術:しこりのみ/患部乳腺のみ(再発率高く非推奨)
- 領域乳腺切除術:患部+隣接乳腺(片側全乳腺切除術を推奨)
- 片側乳腺全切除術:片側4か所+関連組織を一括切除(標準術式)
- 両側乳腺全切除術:両側全てを段階的に切除(無増悪生存期間延長)
- リンパ節郭清:腋窩・鼠径リンパ節を同時摘出し病理検査
手術技術:メッツェンバウム剪刀や電気メスで出血制御しつつ剥離。
PDS II吸収性糸で縫合、局所麻酔ブロックやブピバカイン散布で術後疼痛軽減。
合併症:感染、縫合不全、漿液腫、疼痛。両側同時切除で発生率高。
B. 化学療法(抗がん剤)
- ドキソルビシン:1mg/kg IV、3週毎4–6回
- ミトキサントロン/カルボプラチン:代替・併用
- シクロホスファミド:経口 or 注射
- メトロノミック:低用量経口で血管新生阻害・免疫刺激
副作用:吐き気、嘔吐、下痢、食欲不振、元気消失、骨髄抑制、
腎毒性(特にドキソルビシン時)、脱毛(稀)。
効果議論:再発・転移抑制、生存期間延長を示唆する研究と
差がないとする研究あり。副作用と利益を天秤に、獣医師と十分協議。
C. その他の内科的治療
- NSAIDs:低用量メロキシカム(0.01–0.02mg/kg)で疼痛管理・抗炎症・COX-2阻害抗腫瘍効果。慎重なモニタリング必須。
- 分子標的薬:トセラニブ(パラディア™)が転移性乳がんで高忍容性。低用量メロキシカム併用例あり。
- 免疫療法・サプリ:冬虫夏草等、支持的治療として報告あり。科学的エビデンスは不十分。
- 代替療法:オゾン療法、高濃度ビタミンC点滴、温熱療法など。
D. 放射線治療
CFRTやSRS/SBRTが専門施設で可能。術前縮小や術後マージン不完全、
非手術例に適用検討。
治療法 |
適応・目的 |
副作用 |
モニタリング |
ドキソルビシン |
高リスク再発・転移抑制 |
骨髄抑制、腎毒性 |
血球数・腎機能 |
カルボプラチン |
再発・転移抑制 |
骨髄抑制 |
血球数 |
メトロノミック化学療法 |
長期管理・血管新生阻害 |
軽度消化器症状、骨髄抑制 |
血液検査、全身状態 |
トセラニブ(パラディア™) |
転移性乳がん |
消化器症状、高血圧 |
血液・尿検査、血圧 |
メロキシカム(NSAID) |
疼痛管理・抗炎症 |
腎毒性、肝酵素上昇 |
腎機能、肝機能 |
VII. 予後:診断と治療後に何が予想されるか
- ステージI:MST >3年
- ステージII:MST 約2年
- ステージIII:MST 6ヶ月~1年
- ステージIV:MST 約1~2ヶ月
主要予後因子は腫瘍径、リンパ節転移、組織学的グレード、潰瘍化、
LVI、マージンの状態。複数因子が複雑に影響し、個別評価が必須。
予後因子 |
MST または生存率 |
径<2cm, N0, Grade I |
MST >2–3年, 1年生存率良好 |
径2–3cm |
MST 約1–2年 |
径>3cm, N1, Grade III |
MST 6ヶ月–1年 |
ステージIV |
MST 約1–2ヶ月 |
VIII. 予防:乳腺腫瘍のリスクを減らすために
- 早期避妊手術:6ヶ月齢以前で91%低減が最も効果的
- プロゲスチン回避:代替手段を検討
- 定期検診・自宅モニタリング:早期発見へ繋がる
IX. 治療後の生活:術後管理と生活の質の維持
A. 手術直後の管理
- 疼痛管理:オピオイド、NSAIDs、局所ブロック
- 創傷管理:感染・縫合不全チェック、エリザベスカラー装着
- 安静・活動制限
B. 再発・転移の長期モニタリング
- 定期触診、胸部X線、腹部超音波
- 化学療法副作用管理:制吐剤・止瀉薬・血球数チェック
- 栄養・QOL管理:体重維持、水分補給、環境エンリッチメント
X. 重要な獣医学用語の解説
- 術後補助療法 (Adjuvant Therapy):手術後に行う追加のがん治療。
- 良性 (Benign):転移しない腫瘍。
- 生検 (Biopsy):組織を採取し顕微鏡で検査。
- 癌腫 (Carcinoma):上皮由来のがん。乳腺腫瘍は多くがこれに該当。
- 化学療法 (Chemotherapy):薬物でがん細胞を攻撃。
- COX-2:がんで過剰発現する酵素。NSAIDsはこれを阻害。
- 細胞診 (Cytology):針で吸引し細胞を調べる検査。
- 無増悪生存期間 (DFI):治療後無症状で生存する期間。
- 病理組織検査 (Histopathology):組織を顕微鏡で詳細解析。
- 組織学的グレード:細胞の悪性度。
- 免疫療法 (Immunotherapy):免疫を利用した治療。
- リンパ節郭清 (Lymphadenectomy):リンパ節を外科的に切除。
- LVI (Lymphovascular Invasion):血管・リンパ管内への浸潤。
- 悪性 (Malignant):浸潤性・転移性の腫瘍。
- 乳腺切除術 (Mastectomy):乳腺組織の外科切除。
- MST (Median Survival Time):中央値生存期間。
- 転移 (Metastasis):がん細胞の遠隔臓器移動。
- メトロノミック化学療法:低用量頻回投与。
- 術前補助療法 (Neoadjuvant):手術前に行う治療。
- ネオプラズム (Neoplasm):腫瘍。
- NSAID:非ステロイド性抗炎症薬。
- 腫瘍専門医:がん治療専門の獣医師。
- 卵巣子宮摘出術 (Ovariohysterectomy):避妊手術。
- 緩和ケア (Palliative Care):QOL重視の症状緩和治療。
- 予後 (Prognosis):病気経過の見通し。
- 放射線治療 (Radiation Therapy):高エネルギー線によるがん治療。
- 再発 (Recurrence):治療後のがん再出現。
- ステージ分類 (Staging):進行度評価プロセス。
- TNMシステム:標準的ステージ分類。
- TKI:チロシンキナーゼ阻害薬。
- 潰瘍化:皮膚・粘膜の崩壊。
結論と推奨事項
- 早期避妊手術が最も有効な予防策(6ヶ月前で91%低減)。
- 新たなしこりは即受診。「様子を見る」は禁物です。
- TNM分類による精密診断が治療計画・予後予測の基礎。
- 手術・化学療法・NSAIDs・放射線の集学的アプローチが基本。
- 治療後は定期モニタリングとQOL維持が重要。