今回は、ワンちゃんの上顎(うわあご)の口唇にできた腫瘍を、どのように手術で取り除くのか、実際の獣医療の現場で行われている手順を詳しく解説していきます。
少し専門的な内容も含まれますが、写真などを追加しながら見ていくと、より分かりやすいかと思います。
手術の準備から皮膚の切開まで
手術の概要
- 手術名: 上顎口唇部粘膜の腫瘍切除
- 腫瘍の位置と範囲: 口唇の内側にある粘膜に発生し、眼窩下孔(がんかかこう:目の下にある骨の穴)から口角(こうかく:口の端)まで及ぶ広範囲の腫瘍です。
- 腫瘍の種類と切除方針: 対象は「線維肉腫(せんいにくしゅ)」です。線維肉腫は抗がん剤が効かないため、手術の際に腫瘍細胞を取り残すことがないように、腫瘍を包む膜ごと完全に切除する必要があります。
- 注意すべき血管: 手術中に特に注意すべき大きな血管は、眼窩下孔から出てくる血管です。また、口角を切開した際に出血する小さい動脈もあります。

準備
- 毛刈り: 首にかけて広範囲に毛を刈ります。顎や目の近くも綺麗に毛刈りすることが指示されています。
- 体位: 仰臥位(ぎょうがい)、つまり仰向けの体勢で手術を行います。
- 開口の維持: 手術する側とは反対側の口角に、細長く折りたたんだガーゼを噛ませます。
【重要ポイント】このガーゼは口角の「端」に噛ませないと意味がなく、吻側(ふんそく:鼻先の方)にずれてこないように注意が必要です。
- 体位の固定: タオルを首の下に敷くだけでなく、外側からも左右から挟むようにかけます。
【その理由】腫瘍を剥離する際に圧力がかかり、首の位置がずれていってしまうのを防ぐためです。
皮膚切開
- 切開方針: 上顎の口唇にある腫瘍が皮膚に固着している(くっついている)部位は、その皮膚ごと切除します。腫瘍の辺縁(へんえん:ふち)に沿って皮膚を切開し、口角はやや首の方向に向かって切開を入れます。吻側(鼻先側)の口唇も、口唇粘膜と皮膚の間を切開します。
- 切開時のテクニック: 術者は左手の人差し指を犬の口の中に入れ、内側から皮膚を押し出すように伸ばします。こうして皮膚に張り(カウンタートラクション)をかけながら切開を進めます。
- 出血への対処: 口角の皮膚を切ると、数カ所から静脈性の出血が見られますが、これは電気メスの「バジング」という機能で止血します。1箇所、動脈性の出血も見られるため、ここはモスキート鉗子で血管を掴み、リガシュアで根元を焼いて止血します。
- 剥離の開始: 皮膚切開後、メッツェン(メッツェンバウムという医療用のハサミ)を使い、腫瘤の辺縁を剥離し始めます。

腫瘍の剥離から縫合まで
腫瘤の剥離(はくり)
- 剥離のテクニック: 術者は腫瘍を左手で引っ張りながら、白い線維性の部分を電気メスで切り離していきます。腫瘍の底部は、先端が曲がったペアン鉗子にガーゼを噛ませたものを使い、押し付けるようにして剥離を進めます。
- 周辺組織の処理: 下唇については、口唇と口唇粘膜の境目をメスで切開・剥離し、上唇の腫瘤に余計な張力(テンション)がかからないようにします。口腔側は、臼歯(奥歯)のギリギリ外側のラインを切開し、腫瘤を剥離していきます。
- 助手の役割: 助手がバブコック鉗子を使い、組織をV字に引っ張ってカウンタートラクションをかけ、術野を確保します。
- 深部の剥離と止血: 眼窩(目のくぼみ)の近くを深く剥離する際は、目の位置を常に確認しながら、注意深く行います。眼窩下孔の近くにある太い血管は、チタン製のクリップで結紮します。
【重要ポイント】クリップは合計3箇所留め、体腔側(体がわ)に2箇所、切除する腫瘤側に1箇所という配置で留めます。
- 筋肉への固着の確認: 手術を進めて眼窩や頬部の筋肉が見えてきたら、腫瘍と筋肉の色の違いを観察します。正常な筋肉は赤く、線維の方向が見えますが、腫瘍はぶよぶよとしてピンク色に見えます。この見分けに基づき、腫瘍が固着している部位は電気メスで切離していきます。

皮膚縫合
- 縫合方法: 上唇の部分は、組織の欠損が大きいため「V字縫合」を行います。
- 縫合の順序: まず最も張力(テンション)がかかる部分から縫合し、その後に残りの部分を単純結紮(一結びずつ行う縫合)で縫い合わせます。

補足:短時間で切除する場合のテクニック
また、症例によっては、より迅速な処置が求められることもあります。ここでは「下唇腫瘍」を例に、その場合のテクニックについても触れていきます。
短時間切除の手順
- 腫瘍(マス)の上を、腸鉗子2本で中央に向かって挟み込みます。
- 挟んだ鉗子と腫瘍の間を電気メスで切開し、出血はバジングで止めます。
- 内部はメッツェンを使い、腫瘍の辺縁で切除します。
- 腸鉗子を緩めて出血点を確認し、ガーゼとモスキート鉗子で止血します。
- 口角の外側からは動脈性の出血があることが示唆されています。
- 歯肉側は、歯のギリギリの縁を切開し、メッツェンで顎の骨に沿って剥離します。
- 【重要ポイント】腫瘍を切除した後、辺縁に取り残しがあったため、再度鉗子を緩めて追加で切除を行った、という記録があります。これはマージン(安全域)確保の重要性を示しています。
- 最後に皮膚と口腔粘膜を縫合して終了です。
最新の獣医療からのアップデート情報
ここまで見てきた手術法に加え、現代の獣医療では、さらに治療の成功率やQOL(生活の質)を高めるためのアプローチが標準的になっています。
- CT検査による精密な術前計画: 腫瘍の広がりを3Dで正確に把握し、切除範囲をより厳密に決定します。
- 再建外科(形成外科): 大きく切除した後の口唇の機能(食事、よだれ)と見た目を回復させるための重要な手技です。
- 集学的治療:
- 放射線治療: 手術後の局所再発率を大幅に低下させるための標準的な補助療法です。
- 薬物療法: 分子標的薬など、新しいタイプの薬剤が選択肢となる場合があります。
- 電気化学療法: 手術が困難な場合や、取り残しが懸念される場合の有効な選択肢です。